無題
男は大学生のようだった。背筋を伸ばし、コートのポケットに両手を突っ込んでさっそうと足を運んでいた。少なくとも私にはそう見えた。もしかすると、心持ち上体を反らしているかも知れない。しかし、後ろ姿だけを見ている私には、その点ははっきりとしなかった。
男はロビンソン札幌の北側の歩道を西へ歩いていた。そのまま真っ直ぐ進み、信号機に立ち止まった。私はその信号機に澱んでいる十人ほどの人間の固まりから離れて止まった。
すすきの地下鉄を出てきたその男は、その時点から私達に尾けられていた。そう、私達にだ。
信号機が青に変わった。人の波が動き始める。男は横断歩道を渡り終えても進路を変えることなく、真っ直ぐに進んでいった。東急インの玄関の前を通り過ぎる。そしてまた歩道の角に差し掛かった。
真っ直ぐ行こうとして信号機を待っている人間達の中に井上の背中があった。井上は私とコンビで、男の前、二十メートルほどの所を歩いていた。今は男がどちらへ行くのか分からないので、信号を待っている人間を装っている。男の進路は真っ直ぐ横断歩道を渡るか、右へ市電のある道を横切るか、それとも左の歩道へ折れるかの三つがある。引き返す、というのもあるがこれは無視していい。男の足取りには迷いが見られない。目標に向かって歩いている。そう考えて間違いはなさそうだった。私の経験がこういうときに役立つ。
男は横断歩道を渡ることなく、また、引き返すこともなく、左に折れた。私は井上にそれを伝えるべく、ジャンパーのポケットにいれた右手の親指を動かした。石鹸箱大の送信機のボタンを数回押したり、放したりした。モールス信号だ。「T(ターゲット)ヒダリ」これだけで意味は通じる。井上は素早く体の向きを変え、左に早足で進んだ。井上の耳に差し込まれているイヤホンが見えた。私達は受信機として小型のFMラジオを使っている。私の耳にもステレオイヤホンが差し込まれている。井上も私もラジオをベルトに装着していた。
私が歩道の角を左へ曲がると、井上はすでに男の二十メートルほど前方の所定の位置についていた。
そしてまたすぐに交差点に差し掛かる。信号機のない交差点だ。さっきのように信号待ちの振りはできない。井上は躊躇した様子も見せず、近くの雑居ビルの入り口に入っていった。男がどっちに行くか分からない。ひょっとしたら井上の入った雑居ビルが目的地かも知れない。そうではなかった。男は左に曲がった。私はまた、井上に信号を送った。私がその雑居ビルの前に差し掛かる前に井上は出てきた。ジャンパーの柄が変わっている。リバーシブルなのだ。相変わらず井上の行動は敏速だ。井上は雑居ビルから出ると、早足で男の後を追っていった。
「K」という信号を私は送った。即座に「R」という信号が私の耳に入ってきた。ジャンパーを裏返しに着直すときには送信機のコードアンテナをいったん外さなければならない。それがきちんとしているか確認の信号交換だ。
井上、男、私の順で東急インの裏通りを歩いていた。左手には東急インの高い建物がそびえている。右手には間口の小さい雑居ビルの列が看板をひしめかせて、高さを競いあっている。
突然男が立ち止まり、振り向いた。気の弱そうな目を私に向けてきた。ここで立ち止まってはいけない。また視線を外してもいけない。
男はすぐに前を向き直り、歩き始めた。私の唇の間から深い溜め息が漏れた。心臓の鼓動が高鳴っていた。私は左手で煙草を取りだし、左手で火をつけた。右手はいつでもポケットの中で送信機を握っている。私は煙草の煙を吐き出すと、井上に信号を送った。ターゲットは立ち止まり、振り向いた。が、今はお前の後ろを同じように歩いている。そういう意味を短い暗号文で伝える。「R」了解、という意味の井上の返事だ。
井上はまた交差点に差し掛かった。今度は近くに飛び込めるような建物がない。信号機もない。井上は立ち止まり、左手をジャンパーのポケットから抜いた。煙草の箱を握っている。ゆっくりとした動作で煙草をくわえ、箱をポケットに戻す。そしてまた左手を抜き、ズボンのポケットに突っ込む。右手もジャンパーのポケットから抜き、ズボンのポケットにいれる。首を傾げた。両手を抜き、両手をジャンパーのポケットにいれる。また抜く。ライターを探しているふうに見える。井上がよく使う手だ。私だけは知っていた。井上はライターを持ってはいない。井上はもともと煙草は吸わないのだ。煙草はただの小道具に過ぎない。井上はまた首を傾げた。私は苦笑した。芸が細かい男だ。
そうこうしているうちにターゲットである男は角を左に曲がっていった。私がそのことを伝えようと、右手の親指を送信スイッチにあてたとき、井上はくわえていた煙草を道端に捨て、男の後を追っていった。多分、男が曲がるのを目の隅で見ていたのだろう。 ターゲットは次の角も左に曲がった。東急インの玄関のある方向だった。井上はもう、男の前に出ようとしなかった。「?」私はそう送信した。井上が「A」と答える。尾行パターンをA型に切り換える、という意味だ。つまり、井上がターゲットの後ろ姿を追い、私が井上を追う、という尾行パターンのことだった。「コウタイ」私の耳に飛び込んできた信号は、井上と私の位置を変えようということだ。私は了解した。
井上が歩く速度を落とした。私は逆に早足に進む。ターゲットは東急インの玄関前を過ぎたところだ。
「気づかれたかな」
「眼鏡を変えろ。お前、顔を見られてるだろ」
言葉のやりとりをし、井上を追い越すとすぐ、私は銀ぶちの眼鏡をべっ甲のものに取り替えた。レンズには薄く色が入っている。男に振り向かれたときを思い出すと、胸がわずかに締めつけられる感じがした。
男はこれも先程と同じように、歩道の角まで来ると左に曲がった。次の角も。男の姿が見えなくなると私は歩きながらジャンパーを脱ぎ、裏返して着直した。「K」「R」送信機のアンテナは大丈夫だ。私は男と同じように角を左に折れた。東急インの裏通りだ。さっき男が立ち止まった辺りで、男の歩調が緩くなった。そんな気がした。気のせいかも知れない。
井上と私は電波を通してお喋りし始めた。ターゲットは東急インの玄関前を歩いている。これで三度目だ。
「どう思う?」
「分からん」
「気づかれたと思うか」
「首、横振り」
否定の意味だ。無線電信の会話は素っ気無さすぎる、と井上は以前から主張していた。それで時々こういう具合に気をもたせた応答をする。
「奴の意図、分かるか」
「小指の赤い糸?」
時には二人で漫才もやる。
「意図!」
私は最後のイクスクラメーションを際限なく続けた。そのうちに「分からん」という信号がイヤホンから流れた。モールス信号では、うんざりしている、というニュアンスは伝わりにくいが、なんとなく私には分かった。私は「!」の連続をやめた。
ターゲットが東急インの裏通りに曲がった。東急インをぐるぐる回るのが彼の目的かも知れない。そのうちに走り出すだろう。一周するのに何秒かかるか? 一分を切ることができるか? 回っているうちに溶けてチーズになってしまうかも知れない。
「ちびくろサンボ」
「何だ、それ」
不意に男が立ち止まった。私は素早く、かつ何気無い素振りで回れ右をし、雑居ビルの角に隠れた。井上は私に走り寄ってきて、
「どうしたんだ?」
電波を介さずに話しかけてきた。
「さっき、奴が立ち止まったところだ。何かあるんだ、あそこに」
私はビルの陰から右目だけを出し、男を見た。男が丁度、一つの雑居ビルに入って行くところだった。心持ち、早足に。そして姿は見えなくなった。
私達は男の入った雑居ビルに歩いていった。見上げると、「第一圭和ビル」とかかれた看板があり、そのしたに様々な色の看板が建物の二階辺りまで並んでいた。皆、同じ大きさで白い縁取りがしてあった。スナック、バー、居酒屋などの店名が連なる中に一つだけソープランドがあった。私は腕時計を見た。
「何時だ?」
井上が聞いた。
「二時十分すぎだ」
「飲屋は開いてないよな。・・・バイトか?」
「バイトに行くのに同じところを何周もするのか?」
「帰ろう。奴が出てくるまで待つのも癪だ」
私はうなずいた。私達はすすきの駅に向けて歩き出した。二人とも無言だった。
ロビンソン札幌の前まで来たとき、イヤホンから信号が聞こえた。隣を歩いている井上からだ。「ドウ」そう聞こえた。井上の含み笑いも耳に届いた。私は続きを同じように送ってやった。「テイ」
横を見ると、井上の肩が小刻みに震えていた。私達はくすくす笑いながら地下鉄の階段を降りていった。
尾けられている。こんなのは初めてだ。
私は、女がすすきの地下鉄、ヨーク松坂屋側の入り口に入る前に連絡すべきだ、と思った。ジャンパーのポケットにいれた右手の親指を動かす。
「俺達が尾けられてる。やばい筋の女かも知れない。中止するか?」
井上はほんのわずか歩調を緩めただけで、真っ直ぐに地下鉄の階段を、女を追って降りていった。なんてことだ。井上はこのゲームを続ける気なのだ。私は正直にいって少し怖じけづいていた。