ばら色の人生

 駅の階段を一つ一つ確かめるように、ゆっくりと降りて行く男の姿があった。顔を隠そうとしてか、サングラスをかけた彼は、人の少なくなったホームではかえって目立っている。
 夜。ホームの時計は間もなく十一時を指そうとしていた。雪は止んでいたが、冷たい風の切れ端が彼のコートの襟首に入り込む。つい彼はコートのポケットから両手を出し、襟をつかむ。はめている毛糸の手袋に赤い染みがついていた。彼はそのことに気づき、慌ててまたポケットに両手を戻した。
 すでに、目指す列車はホームに入っていた。彼はそれに乗り込むと、空のボックス席の窓際に腰を落ち着けた。こちらを見ている者が誰もいないのを確かめて、ポケットから両手を抜き、手袋を脱ぐ。それを、どうしようかといった具合に手のひらでもてあそんでいたが、やがて発車のベルがなり、一人の男が急いで彼のいる車両に乗り込むのを見ると、またそれをポケットにいれた。通路を歩いてきた、その初老の男は彼と同じボックス席、斜め向かいに座った。
 彼は心の中で舌打ちをした。
 列車は駅のホームを滑り出した。次第に速度を増してゆく。
 心地良い揺れに目を閉じているサラリーマンらしき人、ゆっくりとスポーツ新聞をめくる人、そして夜のまばらな街の灯を窓越しに見つめる人。静かだった。昼の間、あれほど人の声を聞いていて、今くらい人の声を聞かないでいたい、今くらい何も話さないでいたい、そんな空気が暖房の効いた車内に流れていた。
 彼は前席の初老の男に目を移した。よれよれのコート、ぼさぼさの頭というその男は、マッチの火を煙草に移そうとしているところだった。彼はその仕草をサングラスの奥から見ていたが、ポケットの中の手袋を思い出し、立ち上がった。
 歩いてゆく彼の背中に、初老の男の視線が食い込んだ。彼がトイレに入ったのを見て、初老の男は浮かしかけた腰をまたシートに戻した。窓外に目をやる。雪が流れていた。
 トイレに入った彼は、指先が赤く染まった手袋を出すと、それを黙って見つめた。しばらくそうした後で、トイレの小窓を開けてみる。細やかな雪が中へ舞い込んできた。
 どうだろうか。明日の朝までこの雪は降り続けるだろうか。
 いっそのこと、あそこへ捨ててくればよかったのだ、と思う。しかし、もうどうしようもなかった。
 次の駅まではもうしばらくかかることは知っていた。彼は、列車が比較的家並みの寂しい場所を走っていることを確かめ、その手袋を車窓の外へ放ってやった。片方ずつそうした。そうした後で、思い切ったことをした、と思った。焼き捨てる、という方法もあったのだ。
 雪よ。明日の朝まで降り続いてくれ!
 彼はトイレを出ると、通路を元の席へ引き返した。その途中、次の駅のアナウンスが入った。コートのポケットに両手を突っ込んだまま、どすんと腰を下ろす。初老の男が冷たい視線を彼に向けた。
 やがてホームへと列車は入っていった。初老の男は、そそくさと昇降口へと立ち上がった。
 一人になったボックス席で彼は息をついた。終わったのだ、何もかも。長い間自分にまとわりつき、夜には悪夢にうなされた苦痛、酒で忘れようとし、煙草の煙に気を紛らわせねばならなかった嫌悪から解放されたのだ。
 彼はそっと目を閉じた。降りるべき駅はまだまだ先だ。彼は自分の好きな歌を、歌詞を思い出しながら、ゆったりとした気持ちで口ずさんでいた。
 
 長尾剛の久し振りの深い眠りに朝を伝えたのは、何度めかの玄関のチャイムだった。剛は寝返りを打つと、目を開けた。もう一度チャイムが鳴る。剛は寝惚けたままベッドを降り、教科書やら参考書などが散らばっている中から、ジーンズとジャケットを拾い上げ、身につけた。目蓋を擦りながら玄関へ歩く。またチャイムが鳴った。
 ドアを開けると、背広にコート姿の男が二人立っていた。
「長尾剛君だね?」
 うなずく剛に警察手帳を見せたのは、少し髪に白いものが混じった男だった。もう一人も刑事らしい。
「何の‥‥ご用でしょう?」
「今起きたばかりか‥‥それじゃ、ニュースを見てないね」
 剛はまたうなずいた。年嵩のほうの男は一つ咳払いをすると、
「今朝、長尾静枝という女性の死体が発見されてね」
と、はっきりとした口調で言った。剛の瞳を薄く覆っていた霞は、その名前を聞いて剥ぎ取られた。
「母さんが? ど、どこで?」
「うん、彼女の住んでいた町のはずれでね。半分雪に埋もれていたそうだ」
 その刑事の口元を見つめていた剛は、視線を自分の足元に落とした。
「どうして、‥‥死んでいたんですか?」
 それだけを震える口調で吐いた。
「うん、実は、ね。‥‥殺されたんだ」
 十分後、学生服にコートを羽織った剛は、アパートの前で待っていたパトカーに乗り込んだ。運転するのは吉村という若い方の刑事で、助手席に座っているのは越田という年輩のほうの刑事だ。剛が窓の外にちらつく雪を眺めながらつぶやくように、
「犯人は‥‥」
と言うと、越田は言い難そうに口を開いた。
「うん、‥‥それがね。まだ捜査の途中だからなんとも言えないんだが、目撃者がね‥‥」
「いないんですね」
 力のない口調で剛が言葉を継ぐと、越田は、
「う、うん」
とだけ呟いた。エンジンの唸りが剛の下腹に不快感を与えた。
「犯人は絶対、我々が捕まえるよ」
 吉村がその朝初めて声を発した。
 昼過ぎになって剛はアパートに戻ってきた。越田刑事に昼食をご馳走になった。別れ際、元気だせよ、と母の遺体を見てきたばかりの剛を励ましてくれた、その老刑事に亡き父の面影を見た剛は、今一つ沈んだ心持ちになっていた。
 学生服から普段着に着替えると電話が鳴った。
 剛がこの好条件のアパートに暮らせるのも父の長尾武士のお陰だった。実業家であった武士は、未亡人となった母静枝と、一人息子の剛にかなりの財産を遺してくれたのだ。剛は母と離れて一人で暮らしていたが、一向に生活には困らなかった。
「もしもし、剛?」
 受話器の向こうから可愛らしい声が飛び出してきた。
「ああ、僕だよ。今、どこから?」
 電話の相手は、今一番剛のことを心配してくれる、同級生の岩渕智子だった。
「もちろん、学校よ。今昼休みなの。先生から事件のこと、聞いたわ。本当に、‥‥何て言ったらいいか‥‥」
「うん。いいんだよ。‥‥ありがとう、心配してくれて」
「そりゃあ、そうよ。‥‥それで、今日学校が終わったらそっち行っていい?」
「うん。いいよ」
「分かった。終わったらすぐに行くから。あ、次体育なの。急がなくちゃ。ごめんね」
「ああ、いいよ。待ってるよ。‥‥それじゃ」
 不思議なものだ。今までの沈んだ気持ちは跡形もなく消えてしまった。剛は、元気よく智子が体育館に駆けてゆく姿を思いながら、受話器を置いた。
 
 長尾静枝が亡くなって一週間。静枝の友人や親戚、亡父の武士に世話になったという人達で盛大になった葬式も終わった。
 剛の生活のほうは親戚と相談の結果、剛の意思も汲み入れられて、今のアパートで今まで通り暮らすことになった。経済的な援助は父の兄が面倒を見てくれることになった。大学へも安心して進学せよ、とのことだった。
 捜査のほうは懸命な活動にもかかわらず進展は見られなかった。凶行のあった晩は吹雪が夜明け近くまで吹き荒れ、事件の目撃者が現われる望みは薄かった。現に有力な証言は全くない。犯人が残していったものは指紋も足跡もなく、凶器のナイフの出所は不明。犯行現場・・・・死体発見現場と同じと見られる・・・・から二キロ程離れたところにあるDIY店で、凶器と同じ型のナイフが大量に売られていたが、そこの店員はどういう人間がそれを買っていったか記憶していない。動機も不明。性格は温和でおとなしい静枝が、恨みを買うようなことはないだろう、と彼女を知っているものは言った。死因は失血死。
 捜査本部は今のところ、事件解決の糸口さえ見つけられなかった。
 そんな中で剛は大学入試にラストスパートをかけていた。剛は私立の札幌文化大学を目指していた。学部は外国語学部で、本気で英語を学びたいと考えていた。
「明るくなったわね、なんとなく。‥‥剛。‥‥受験、そう受験も近いというのに」
 智子が言葉を選んでそう言うと、剛は照れ臭そうな顔を作って、
「君が‥‥いるからさ」
と言った。智子は目を丸くした。
「あれ? いつからそんな殺し文句を言うようになったのかな?」
 剛は智子の大きな瞳に顔を覗きこまれて頭を掻いた。
「でも大丈夫?」
 急に智子が心配そうな顔になって言うので、今度は剛が目を丸くしそうになった。
「な、何が」
「剛、あれでしょ? 札幌文化大、一本でしょう? だから」
「何とかなるだろう? それより智子はどうなんだよ、外語大。共通一次、あんまりよくなかったんだろう?」
 智子は剛と同じ大学と国立の北海道外国語大学との併願だった。
「う、うん。それを言われると何も言えないんだけどね」
「よし、問題を出そう。次の英文を和訳すること。いいかい? 問題。I can give you nothing but love」
 天上を見上げて考えていた智子の視線が真っ直ぐ剛を見た。
「その答えは、これ!」
 智子は剛の頬にそっと口づけをした。父親に続いて母親を亡くした剛の若い心の痛みは、智子の存在によって晴間を覗かせていた。
 
 高校最後の定期考査がその日で終わって、アパートで一息ついている剛の所へ一人の刑事が訪ねてきた。あのときの若い方の刑事、吉村である。
「捜査のほうはどうなっていますか」
「うん‥‥いや、ちょっと中へ入れてもらえるかな」
「あ、どうぞ」
 剛は心の中で舌打ちをした。智子が来ることになっているのだ。
「実はね。今日になって新しいことが分かってね」
 台所でコーヒーをいれている剛の背中に吉村は切り出したが、すぐ口を閉ざし、沈黙した。
「インスタントしかありませんが」
 剛がコーヒーを差し出すと、吉村はばつが悪い様子で、
「いや、悪いな。‥‥すまんね、受験で忙しいときに。‥‥試験はいつだい?」
「そんなことより、その新しいことってなんですか」
 不貞腐れたように剛が言った。吉村と向かい合って座る。
「うん。君にとってはあまりいい事じゃないんだけど」
 吉村は奥歯にもののはさまった言い方をした。
「君、お母さんに愛人がいたって事、知っていたかい?」
「愛人?」
 剛は持っていたコーヒーカップを落としそうになって、急いでテーブルに置いた。
「いや、愛人といってもその人はね。男やもめで、お母さんとは真剣に再婚を考えていたらしいんだ」
「事件の、犯人なんですか?」
 吉村はうつむき加減になっていった。
「いや、彼にはアリバイがあった」
 偽のアリバイじゃないんですか、と剛が言おうと口を開いたとき、チャイムが鳴った。「智子だ。ちょっと失礼します」
 剛が腰を上げると、吉村も立ち上がった。
「僕はこれで失礼するよ。君もその人のこと知らないようだし。また何か新しいことが分かったら話に来るよ」
と言う間に靴を履き、ドアを開けた。
「あ、剛‥‥あれ?」
 智子もびっくりした。剛かと思って特別の笑顔を作っていたのに。
「それじゃ、また。‥‥智子さんも」
「あ、どうも」
 吉村は去っていった。
 智子は吉村の背中をしばらく見つめていたが、済まなそうな表情で剛に向かった。
「私、悪かったかな」
「うん? いや、そんなことはないよ。ちょうどいいタイミングだったよ」
 剛は智子を中に入れながら、
「実は、早く追い出したかったんだ。‥‥コーヒー、飲むかい?」
 後の言葉を言った時には剛は台所に入っていた。
「あ、いいわ。私がやるから」
 智子は両手を差し出して、剛が持っているポットを受け取ろうとした。剛はポットを流し台に置いた。二人の視線が絡み合う。智子が先に目を閉じた。剛が一歩進み出ると、智子は目を閉じたまま顔を上に向けた。二人の唇が合う。智子の唇は冷たくはなかったが硬かった。

「英語の問題、意外と難しかったね」
 剛のアパート。札幌文化大の入試が終わり、智子と二人。
「そうだね。でも、思ったより簡単だったな、国語と数学は」
「そうね。‥‥受かっていたらいいなあ」
 智子は大きな伸びをした。剛の視線は智子の胸に固定された。伸びのせいで智子の柔らかそうな胸が、形よくセーターに浮かび上がったのだ。剛は伸びをしたままの智子に抱きつき、押し倒した。
「あ、‥‥駄目」
 智子が小さい声を漏らした。
 ・・・・吉村刑事はあれから全くやってこない。剛はこっちから電話をかけてやろうか、それとも直接会いに行ってやろうかと思ったが、どちらもやめた。結局、母の愛人の件は分からずじまいだった。
 剛の右手が衣服の上から智子の胸を包んだとき、電話が鳴った。白けた気分を笑いでごまかし、剛が受話器を取りに立ち上がった。
「やっぱりいたね、剛君」
 聞き慣れない男の声だった。
「この時間ならいると思ったよ」
 窓からは西日が差している。
「どうだったね、入試のほうは。札幌文化大、今日だったんだろう?」
「どちら様でしょうか」
 伯父さんかとも思ったが、そうではない。
「君と、あることで話がしたいんだが。君にとってはとても重大なことだ。‥‥そこに誰かいるのかい」
 剛は黙ったまま智子を見た。智子が「誰から?」と声には出さず口を動かした。剛は首を傾げた。
「分かっている。智子君だろう。‥‥今はまずいな」
「誰なんですか、一体」
「ふふ。今夜また電話をするよ。‥‥智子君と仲良くね」
 電話は向こうから切れた。剛はしばらく電子音を聞いていた。
「ね。誰から?」
 剛は受話器を置きながら首を振った。電話の相手は、この智子のことまで知っていた。「何、たちの悪いいたずら電話さ。‥‥それより見ろよ。珍しいぜ、冬に夕日なんて」
「わ。本当だ」
 智子は立ち上がって窓を開けた。寒気が暖房で暖まった空気を攪拌する。智子は首を縮めながらも、厚い雲の隙間から薄い色の夕日が顔を覗かせているのを眺めていた。小雪がちらついていた。
 冬の夕日だ。今夜は吹雪になりそうだ。
 剛はそう思い、電話を見つめた。今にも鳴り出しそうに緊張しているかに見えた。
 
 剛と智子に札幌文化大学から合格通知が届いたその日、剛は智子に、一緒に夕食をしてそれを祝おう、と提案した。家族には、その晩は友達の家に泊まるということにしておいてほしい、とも言った。智子は渋った。
 それでも剛に頬を挟まれ、唇を吸われたときには智子は意を決していた。その日、智子は生まれて初めて両親に嘘をついた。
「剛は悪い人。智子はもっと悪い人‥‥」
 レストランでは陽気だった智子も、目指すホテルが近づいてくると、次第に口数が少なくなった。タクシーは使わなかった。
「これに記入してください」
 シティホテルのフロントだった。
 剛はペンを薬指と中指の間にはさんで名前と住所を記入した。上手くはないが、そんなに不自然な文字ではない。訓練の賜物だった。住所も名前もでたらめを書いた。二人の名字を一緒にする。兄妹と思ってくれるだろう。妹の受験に兄がついてきた、と思われたいため、剛は大きなマジソンバッグを持っていた。
 智子は剛の指先を見つめることはしなかった。首を微かに曲げ、床を見据えている。
 剛がキーを受け取った。部屋は四階だった。剛は智子の腕を引いて、智子が歩き出すきっかけを作ってやらなければならなかった。
 
 二人はエレベーターに向かった。智子は、ロビーのソファに座って本を読んでいる何人かの男女を見つけた。
「あれ、どういうこと? みんな、私達と同じ年頃よね」
「ああ、あれね。このホテル多いんだよ。近くに私立大学があるだろ? みんな受験生さ。俺達もそう見られるかもね」
 智子は、剛が自分のことを言うのに俺、という言葉を使ったのを初めて聞いた。
 エレベーターを待つ間、智子は剛の部屋に腕時計を忘れたことに気づいた。壁の時計は九時を少しまわっていた。
 エレベーターを四階でおりて、二人は少し離れて歩き、部屋に向かった。部屋の前まで来ると、剛の動きもこころなしかぎこちなくなった。キーをドアの穴へ差し込もうとするが、なかなか入らない。剛は軽く、わざとらしい咳払いをした。智子はそれを見てクスッと笑った。
 部屋に入り、剛が持っていたバッグを床へ置くと、その場で唇を合わせた。智子が剛を押し退けるように離れて、部屋の奥へ進んで行く。
「何か飲もうか」
 剛はそこで初めて部屋のあかりをつけ、腕時計に目をやった。
「ル、ルームサービスとかで?」
 部屋を見回しながら言う智子の声は掠れていた。
「いや、顔を見られるのも嫌だな。ラウンジの販売機で何か買ってくるよ。ジュースでいいだろ?」
 剛はそんなラウンジのあるホテルを選んだ。都合がいい。
 智子は剛の背中を見送って、振り返り、窓の中に映る自分の姿を見た。暖房の効いたその部屋で智子はまだコートを着ていることに気づいた。
「馬鹿みたい」
と、笑いながらコートを脱ぐ。剛が帰ってきた。
「さあ、どうぞ」
 剛は持っていた紙コップのジュースの一方を智子に渡すと、
「乾杯。‥‥ん、二人の夜に」
「乾杯」
 智子も喉が渇いていたのか、そのジュースを一息に飲み干した。剛はそれを冷たく見つめていた。
 十時。剛は一人、部屋を出た。智子はベッドで眠っている。さっきのジュースに睡眠薬の錠剤を念入りに砕いた粉末を混ぜておいたのだ。
 部屋には時計がない。智子も時計は持っていない。事の終えた後で智子を起こし、時間をごまかす。いざというとき、その時間一緒にいた、と智子がアリバイを証明してくれる。剛はそう考えていた。
 一階の喫茶室にその男はいた。剛を恐喝しようという初老の男だった。その男は警視庁の元警部であり、母、静枝の愛人でもあった。名前は西岡と名乗っていた。
 剛がその男と同じ席に着くと、その喫茶室にたった一人のウェイターがやってきた。コーヒーを頼むと、ウェイターは疲れた表情で、十時半には閉めますので、と言って去っていった。喫茶室の中には、参考書をにらんでいる受験生がまばらにテーブルに座っていた。
 剛は黄色いプラスティック製の縁をした伊達眼鏡をかけていた。
「いつかのサングラスはどうした? ‥‥おや、コートはこの前と同じだ」
 西岡はよれよれのコート、ぼさぼさの頭という格好だった。あの時と違うのは、情け無い不精髭を生やしていることだった。
「それで、拾ったという手袋は?」
 ささやくように剛が言った。
「この紙袋に入っている」
 剛はテーブルの上の紙袋を見やった。
「これを見つけるのに苦労したよ。もう少し手間取っていたら見つけられないところだった。あの晩はあれからひどい吹雪になったからね」
 剛は袋の中を改めた。中に血のついた一対の手袋が入っていた。確かにあの晩、自分が捨てたものだった。
「それで約束の金は?」
 剛は紙袋をコートのポケットに押し込むと、うっすらと口元で笑った。
「上手く考えたな。高すぎず、安すぎない金額だ。俺の口座に毎月生活費が振り込まれているのは分かり切ったことだからな。問題は、どのくらいなら俺が取引に応じるか、だった」
「そんなことはどうでもいい。早く金を」
「この手袋を俺が処分したところで、あんたはまた俺を脅迫する気だ。そうだろう? 出るところへ出る、という言葉は高校生を恐れさせるには十分すぎる」
 剛は苦笑した。先ほどのウェイターが剛のコーヒーを運んできた。胡散くさそうな目付きを二人に向け、さがっていった。
「何を言ってるんだ? これきりにする。約束する。人をさんざん待たせやがって‥‥コーヒーを三杯も飲んだんだぞ」
 剛はまたニヤリと笑った。
「なんならこのコーヒーも飲むかい?」
「冗談だろ? ‥‥早く金を」
 剛は胸の内ポケットに手を差し入れ、封筒を掴みだし、テーブルの上に置いた。
「‥‥これきりだぞ」
 西岡は薄笑いを浮かべ、その封筒を手に取り、中身を確かめた。薄笑いは消えない。
「何がおかしい?」
 剛は席を立ちながら、西岡の笑みが気になった。
「ふふ‥‥。なんと言ったって、君とあの静枝がねえ」
「言うな。それ以上言うな」
「‥‥母子相姦だとはねえ」
「黙れ!」
 思いがけず大きな声だった。他のテーブルの客もみんな剛を見た。西岡を殴り倒したい衝動にかられたが、ここでこれ以上目立つのは控えねばならなかった。剛は耐えた。
「じゃ、な。‥‥これきりだ」
 剛は最後の言葉を力を込めて言い捨てた。喫茶室の出口へ向かう剛を、西岡の言葉が追いかけてくる。
「ここの勘定は君が払ってくれよ」
 剛は床を踏み鳴らしたい衝動をおさえるのがやっとだった。
 コーヒーカップや伝票に自分の指紋を残すほど馬鹿じゃないDD心の中で何度もそう唱えるうち、剛の心の動揺は次第に鎮まってゆく。剛はいつの間にか、自分の心をコントロールすることが出来るようになっていた。
 剛は、自分で持ってきた手袋をはめながら廊下のトイレに向かった。
 さっき西岡は、コーヒーを三杯飲んだと言った。剛の思惑通りだった。今のところ、順調に事は運んでいる。後は西岡がこのホテルのトイレに寄っていくかどうかだった。喫茶室にはトイレはない。寄るとすれば廊下のトイレだった。
 コーヒーには排尿を促す作用がある、と聞いたことがある。剛を待つ間に西岡が用を足している可能性もあった。もしそうならトイレには来ないだろう。それならそれでいい、と思った。これはゲームだ。西岡がトイレに来たら殺す。恐喝は今回限りとは思えなかった。西岡の証言で剛の立場は危うくなる。西岡の存在自身が恐喝材料となりうるのだ。
 剛はトイレに入り、誰もいないのを確かめた。掃除用具の入っている扉を開け、中に入る。扉は薄く開いた状態にしておいた。ナイフを取り出す。息を殺した。
 五分もしないうちに鼻歌を歌いながら西岡が入ってきた。
 剛はさも嬉しそうに、微笑んだ。

         ・・・剛は西岡の死体を引きずってトイレの個室に運び込んだ。胸にナイフを刺したままの西岡を、上半身を壁にもたせて座る格好にさせた。手袋をしたままの手で西岡の体を探る。金の入った封筒を取り戻し、西岡の財布の中身を空にした。
 馬鹿な男だ。剛は思った。
 コートの右ポケットから変なものが出てきた。飛びだしナイフだった。
 こんな男を母さんは‥‥
 左ポケットから拳銃が出てきた。モデルガンらしい。それも頂く。
 そのとき、廊下に足音がした。剛は咄嗟に個室のドアを閉めようとしたが、西岡の硬くなりつつある足が邪魔で閉まらない。焦った。
 トイレの扉が開く音がした。しかたない。剛は個室を出た。私服に着替えた喫茶室のウェイターが、ズボンのファスナーに手をやりながら進んできた。一瞬びくりとして、剛を見る。
「やあ!」
 剛は明るい声をかけてやり、左手を軽く上げた。
 右手に持った飛びだしナイフの刃がきらめいた。ウェイターは口を開けた。すかさずその中へ剛の左手が押し込まれる。悲鳴はくぐもった声になった。ナイフの刃がウェイターの鳩尾の下を突く。皮膚を破る。押し戻された。力を込める。内臓を進んでゆく感触が伝わってきた。ナイフの刃は一センチほど残して進まなくなった。ナイフを抜く。刺すより力が要った。勢いよく鮮血が吹き出した。床が、壁が赤く染まってゆく。
 そのときには剛はウェイターの後ろにまわっていて、返り血は浴びなかった。ウェイターの背中を靴の裏で蹴る。文字通り血の海となった床にウェイターは倒れ込んだ。呻き声を上げている。もがいていた。
 剛は試しに手にもったナイフを、倒れているウェイターの背中を狙って投げてみた。上手い具合にナイフは突き刺さった。苦笑する。ウェイターは動かなくなっていた。
「ハンカチは持ったし、ティッシュも持った。忘れ物はないな」
 剛は口元で笑いながらおどけた調子で呟くと、掃除用具入れの中に見つけた「只今清掃中」の札を持ち、トイレの扉を開けた。少しの間考え込んで、ウェイターが店の服ではなく私服を着ていたのを思って、トイレの電灯を消す。扉を閉めた。なにげない顔をして札を扉の把手にかけ、手袋をはずした。廊下に人影はなかった。
「楽しいゲームだ」
 そう呟いた。
 四階の自分の部屋に戻ると、智子はまだベッドの上で寝息を立てていた。剛は自分の手袋、西岡から奪った拳銃などをバッグに詰め込んだ。中身を智子に見られないように注意しなければならない、そう心に言い聞かせた。剛は自分の腕時計をちょうど一時間遅らせた。これも翌朝には元に戻す。
「智子。‥‥おい、智子」
 智子の肩を掴み、揺り動かす。あっけなく智子は目を覚ました。
「う、うん? ‥‥あ、ご免。私、眠ってた? 今、何時?」
「今、十時少し前」
 剛が腕時計に目をやると、智子は目蓋を擦りながら、
「本当?」
と、時計を覗き込む。
「本当だ。 ‥‥何だか体がだるいな。シャワー浴びていい?」
「ああ。いいよ、行っといでよ」
「それじゃ!」
と言って元気よく立ち上がると、頭を左右に振りながらバスルームに向かう。
「剛‥‥一緒に入る?」
 振り向いて智子が言った。
「馬鹿言え。早く入ってこいよ」
「うん」
 剛はベッドに仰向けになると、今してきたばかりのことを思った。
 しまった!
 トイレに残してきたものに気づいた。眼鏡だ。あれには指紋がついているかも知れない。どうしてあんなものを置いてきたりしたんだろう。やはりどこか抜けていたのだ、畜生。バスルームからは水の跳ねる音がしていた。
 よし!
 剛は部屋を飛び出した。
 再び剛が部屋に戻ってみると、まだ智子はバスルームの中だった。鼻歌が聞こえる。剛は持ってきた眼鏡をバッグの中に押し込み、バッグを部屋の隅に押しやった。手早く着ているものを脱ぐ。人に見られないようにするよりも、智子に気づかれはしないかと気が気でなかった。
 剛はシャワーの音のしているバスルームへ入っていった。
 次の朝早く、二人はチェックアウトした。剛には信じられなかったが、西岡とウェイターの死体はまだ発見されていないらしい。フロント係の欠伸を見て少し納得したが、駅まで歩く途中、疾走してゆくパトカーとすれ違った。
 
 静枝が闇の中を走ってくる。喜びを満面にたたえて。
 母さん! 来ちゃ駄目だ。殺される。殺される。
 突然、雪が、真っ白な雪が唸り声をあげて静枝を襲う。静枝の長い髪も、着ているコートもばさばさと音を立てた。静枝が手を差し伸べる。笑いながら。自分は持っているナイフをきらめかせ、静枝に向かって走る。静枝の顔が驚愕の表情に変わる。鈍い音を立て、その鋭い刃を持つナイフが静枝の胸に埋まった。何もかも吹き飛ばすような静枝の悲鳴。
 助けて! 剛、助けて!
 母さん!
 ふっと何もかもがまた静かな闇の中へ引っ込む。西岡の顔。真赤な口。大きな口。汚れた歯。西岡が笑っている。大きな声で。大きく、大きく。呼吸をするのも苦しそうに喉を痙攣させて笑っている。大きく、大きく。静枝の白目をむいた顔。真っ白な顔。黙って自分を見上げている。西岡が笑っている。息を吐きながら笑い、息を吸いながら笑う。大きく、大きく。静枝の顔。にらんでいる。ただ黙ってにらんでいる。西岡の笑い・・・・
 剛は布団を跳ね退けるように半身を起こした。生暖かい汗が体中を包んでいる。シーツが濡れていた。剛は大きく目を見開き、口で、肩で大きく息をしていた。蝶番が外れたように首を垂れて目を閉じる。
 あの時、母さんは久し振りに息子から会いたいという電話を受けて、あんな寂しいところへ、それも深夜、吹雪の中を会いに来てくれた。済まなかった、済まなかったと俺の手を取り、何度も何度も頭を下げた。
 あの時の俺はどうかしてたんだ。それこそ悪夢だった。気がつくと母さんが倒れていた。俺は恐くなって吹雪の中を何度も何度も転びながら逃げた。転んだときの傷がまだ膝に残っている。
 暗がりの中で、ライターの音とともに剛の顔が浮かび上がった。時計を見ると、四時をさしている。
 そういえばあの晩、駅を出てからウィスキーの小瓶を口にしながら歩いていったんだ。母さんに会うときには俺は酔っていた。
 あの空になったウィスキーの瓶をどうしたっけ。そうだ、どこへやったっけ。捨てたような気もする。ポケットに入れたような気もする。どうしたっけ。思い出せない。思い出せない‥‥
 
 西岡元警部とウェイター殺しのニュースは、麻薬中毒の西岡がそのブローカー組織とのもつれで殺され、ウェイターはその現場を目撃し、犠牲になったのではないかと警察は見ている、と報道されていた。
 犯行推定時間の前に、西岡とホテルの喫茶室であっていた若い男を重要参考人として捜している、との事だった。そして、その晩ホテルの宿泊客の中に不審なものがいなかったか捜査中とのことだった。殺された西岡が、以前、これも殺された長尾静枝の愛人であるらしいことも報道されていた。
 聞き込みにより、西岡は改造拳銃を所持していた疑いが強く、その行方も追っている。
「改造拳銃!」
 西岡とは一体何ていう男なのだ。しかも麻薬中毒だという。剛は興奮をおぼえた。
 本棚に並んでいる本の後ろに隠してあった拳銃を取り出す。六連発のリブォルバーで、一発分が空薬莢だが、他の五発は実弾が詰められている。一発撃つことが出来た、と言うことは、精巧な改造拳銃なのだろう。
 剛は笑った。快活に笑った。
 まさか一介の高校生があんな残虐な事件の真犯人だとは誰も思うまい。剛は拳銃を構え、どこへともなく狙いを突けて笑い続けた。次のターゲットは‥‥
 剛の笑いは止まらなかった。
 
 剛がクラスメイトの冬木孝夫を次のターゲットとしようと決心したのは些細なことがきっかけだった。孝夫は智子に熱を上げていて、智子と付き合っている剛を恨んでいた。剛が教室にいると冷たい視線を投げかけてくる。陰でこそこそと嫌らしいいやがらせをしてきた。剛が女たらしだとの噂を広めたのも孝夫だった。
 しょっちゅうブラシで髪を整えたり、自分が道場で習っている武道を自慢げに話したりしている孝夫の姿は剛にはただ気持ち悪い思いをさせるだけだった。
 剛の知らないところで剛の事をさんざんけなしている孝夫は、剛の前に立つと目を逸らし、何やら口の中でブツブツ言うだけで、はっきり言わない。かと思うと横目でチラリと剛を一瞥すると、気色悪い笑みを唇に浮かべるのだった。
 剛の中で眠っていた孝夫への殺意に火をつけたのは。孝夫の「お前、智子と寝たんだろう? このすけべ野郎、へへへ」という言葉だった。廊下を歩いていた剛の後から小走りにやってきて、剛の前に来ると、振り返り、この言葉を吐いて小踊りするように去っていった。だめ押しは下校するとき、剛の前に力強く吐いた唾だった。
 そのとき、剛の瞳に復讐とも言える炎がめらめらと燃え上がった。
 濃紺でダブルのコートのボタンをきっちり締め、ベルトをきつく結んで帰ってゆく孝夫の後頭部に鉛の弾丸をぶち込むシーンが剛の頭に強く焼き付けられた。自分が今、拳銃を持っているならすぐにでもそうしたい気持ちを拳にかためながら、剛は思わず唇を歪めて孝夫に聞こえるような大きな音を立てて唾を吐いていた。
 
「剛君」
 アパートに一人でいるところへ吉村刑事が訪ねてきた。今度は部屋の中へ入ろうとしない。
「この男を知っているかい?」
 吉村は一枚の写真を剛に差し出した。剛はそれを受け取って眺めた。
「西岡政次という男だ」
「この男。 ‥‥母さんの愛人。この前、市内のホテルで殺された男ですね」
 剛は写真を吉村に返した。吉村は大事そうにポケットにしまう。
「そうだ。会ったことはあるかい?」
 剛は首を振った。
「そうか。‥‥警察のほうでは、西岡殺しの犯人と君のお母さんを殺した犯人は同一人物ではないかと見ているんだ」
「母さんも麻薬を?」
 吉村が首を振る。
「その証拠はない。ただ、西岡の知っていることを君のお母さんも知っていた、ということは考えられる」
「組織の秘密ってことですか」
「そう。そう考えると‥‥」
「僕?」
 吉村は沈黙した。
「母さんからは西岡って男の事は聞いてはいないし、僕自身、その男とは会ったことはありません」
「だとしても、気をつけてくれよ。相手は暴力団だ。もし君がお母さんから預かっているものでもあれば‥‥」
「そんなものはありません!」
 剛はきっぱりと言った。吉村は疑い深そうな目つきで剛を見ていたが、
「そうか。分かったよ。‥‥とにかく気をつけてくれよ。学校帰りに交通事故であの世行きなんてのもありえるからな」
吉村は遂に部屋に上がらず帰っていった。去ってゆく吉村の背中に見つめられているような感じがした。

 深夜。時刻はすでに十二時をまわっている。さっきまでしきりに降っていた雪も今は止んでいた。風もない。静まり返った中に、新雪を踏む足音だけが聞こえていた。
 もう少しで約束の場所だ。
 村田規彦の吐く息が白く宙を踊って消えた。村田は駅を出てからもう一時間近く歩き続けている。
 あの電話を受けたのが自分だったのが幸運だ。手柄を立てて組の連中を驚かせてやる。
「駅前通りの最初の信号機を右に折れ、次の信号を真っ直ぐ進めば左側の河原に『有田不動産』の看板がある。今夜十二時そこで待つ」
 村田の口元は自然に緩んだ。相手はたかが高校生のガキだ。
 最初の信号機はすぐ見つかった。しかし、次の信号が見えてくるまでは優に三十分はかかっていた。車の行き来が無くなり、街灯が途切れ、その最後の街灯からの光が届くか届かないかの暗がりの中に、看板はあった。
 駅前のタクシー乗場に、欠伸する運転手を乗せたタクシーが一台止まっていたのを思い出した。
 こんなことなら車を使えばよかった。道端にマーチが止めてあった。ボンネットには村田の肩の上と同じ程の雪がのっているだけだ。手をやるとまだ温かかった。
 可愛い車に乗りやがって。
 そこから河原の看板のほうに一人分の足跡が続いていた。看板の後ろにいるのか、人影は確かめられなかった。村田はその足跡を辿って、河原に降りていった。
 向こう見ずなガキだ。やくざもんと取引しようなんてな。
 看板まで意外に距離があった。
 それにしても西岡の野郎、てめえの惚れた女のガキに拳銃を預けるとは間の抜けたことをしやがる。
 人影が見えてきた。遠くからのわずかな光では、その人物の目鼻立ちまでは分からなかった。見えたとしても村田は剛の顔を知ってはいなかった。
 村田は腰のベルトに差し込んだ拳銃の銃把を握った。
 殺ってやる。俺は殺しは初めてだ。今晩を俺の第二の筆下ろしの日にしてやる。
 雪が降り始めた。風も吹く。次第に強くなってゆく。村田は風上に向かって歩いていた。 こいつをやり、改造拳銃を取り戻せば、俺も組の中で認められる存在になる。
 コートのベルトをきつく締めているその人影は、ポケットからすっと手を抜いた。一瞬村田は銃把を握った手に力を込める。
 何だ、ありゃ?
 コートの男は、短い鎖でつながれた二本の棒の片方を握っている。一方はぶらぶらと、ますます強くなる風に踊らされていた。
 ヌンチャク? ふざけるなよ。
 風はもはや、目を開けていられないほどの強さになっていた。それでも村田は何とかその男とも距離を目測した。十メートル。村田は歩を進めた。
 ヌンチャクだと? ナメてんのか?
 風が唸り始めた。湿り気を帯びた雪が水平に飛んでくる。雪は体にしがみつき、顔に、目に、ぶつかってきた。
 村田が拳銃を抜き、構えようとしたときだった。不意に後ろから声がしたのだ。
「よく来たな。何も言わず、拳銃を落とせ」
 村田の背中に固い感触が押し付けられている。
 いつの間に?
「殺すつもりだったようだな、俺を。残念だった」
 低く、押し殺した声が耳元でささやかれた。
「早くしろ。撃つぞ。本気だ」
 村田は気味悪く感じた。この声を聞いていると鳥肌が立ってしまう。
 自分の相手は高校生じゃなかったか?
「五、四、三、二‥‥」
 村田は拳銃を握った手から力が抜けてゆくのを感じた。拳銃は雪の中へ音もなく沈んだ。「こいつはいい。サイレンサー付きか」
 見えたのか。今のが。
「何事も経験だよ。肩書だけじゃ何もできないさ。殺しもそうだ。より多くの経験を持つものが勝つ。やくざだって高校生に負ける」
 村田はこめかみに強い衝撃を受けて、その場に倒れ込んだ。顔を雪に埋める前に、ヌンチャクを持った男が看板のそばに立っているのを見た。
 仲間? 仲間がいたのか。畜生。
 気を失う。
 
 孝夫は立ち止まったままの男に襲いかかろうとしていた。が、急にその男が倒れてしまい、その後ろにもう一つの人影を見つけたときには目を見張った。
 俺には一人で来い、と言っておきながら剛の奴、仲間を連れてきたな。
 単純にそう考えた孝夫は、手に持ったヌンチャクを振り上げ駆け出した。カンフー映画のような奇声を発していた。
 風に背中を押されている感じだった。勢いがついた。ヌンチャクを振り下ろす。剛は横に逃げた。孝夫は何かにつまづき、雪を転がった。
 受け身とはこうやるもんだ。
 お手本のような孝夫の動きだった。振り向くと、剛が何かを拾い上げ、体温計か何かのようにしきりに振っているのが見える。孝夫は体勢を整え、二発目を剛の肩口に打ち込んだ。当たった。剛は呻き、屈み込んだ。耳の辺りに三発目。外れた。隙をつかれ、ヌンチャクの片方を掴まれた。剛は立ち上がった。
 孝夫は空いてる手で剛の頬を殴った。剛はヌンチャクを離そうとしない。もう一発、パンチ。当たった。剛はヌンチャクから手を離し、後ろ向きに倒れた。両手を差し出している。
 起こしてくれってか、甘いぜ。
 孝夫がそう思ったとき、右のすねに鋭い痛みが走った。
 何だ?
 孝夫は倒れた。顔が歪んだ。ヌンチャクはどこかへ飛んで、なくなっていた。痛かった。焼けるような痛みだった。手をやると血で濡れた。
「いてえ!」
 孝夫は叫んでいた。剛がそばに立っているのに気づくまで何度も雪の上を転がり回っていた。
「ピストルか? お前、ピストルを持ってるのか」
 聞くまでもなく、剛はそれを孝夫の顔に向けていた。孝夫が銃口をのぞき込めるほど近付けられている。硝煙が匂った。
「や、やってみろ。今晩のこと、長門先生は知っているんだぞ。へっへへへへ。やってみろよ」
 剛はそれを聞いて、引き金にかけていた指をはずした。
「本当か」
「ああ。本当だとも。そ、掃除の時間、クラスのやつらと話してたらな。長門先生もそれを聞いていたんだ。今夜、お前と決闘だってな。俺を、俺を殺したら‥‥」
 剛は最後まで言わせなかった。村田と同じようにこめかみを銃把で殴り、気絶させた。 剛は孝夫の両足を持ち、村田の倒れているところまで引きずった。
 雪は止んでいた。風は弱まっていたが、それでも地面の雪を舞わせている。
 剛は孝夫のヌンチャクを探した。十分ほど歩き回ったが、結局元いた場所の近くで見つけた。それを手袋をはめた手で拾い上げ、孝夫のコートのポケットに突っ込む。
 カンフー映画の見過ぎだよ。
 剛は鼻を慣らしていた。孝夫は決闘だと言われて張り切ってここへやってきた。自分が映画のヒーローにでもなったつもりらしい。
 剛は孝夫を担ぎ、土手を上っていった。マーチのそばに降ろしたときには、剛は肩で息をしていた。孝夫のポケットを三つ探ると、車のキーが出てきた。マーチのドアを開け、孝夫を押し込む。ドアを閉める。
 背後で雪を踏む音がした。剛はボンネットの上に置いた村田の拳銃に手を伸ばした。銃を手に取り、振り向く。体当たりを食らった。車体に体を押し付けられる。腰の辺りの骨が刺すように痛む。銃身を握り直し、腕を振り上げる。相手が剛からはなれた。剛は土手に飛んだ。雪を転がっていった。
「ガキぃ、ナメんじゃねえぞ」
 村田が叫んだ。
 剛は立ち上がり、村田を待ち構えた。甘かった。村田の姿は見えなかった。マーチのエンジンが唸り始める。車のドアにキーを差したままだったことを思い出した。
 逃げる気か?
 そうではなかった。マーチは土手を降りてきた。ヘッドライトが剛を探す。
 剛はマーチに拳銃を構えた。ヘッドライトは真っ直ぐ剛を射貫いていた。ぐんぐん近付いてくる。
 剛は銃を構え直した。撃つのではない。投げるのだ。そのほうが得手だった。
 狙いをつけ、投げた。剛は横に飛ぶ。マーチは剛の方にハンドルを切った。フロントウインドウが割れている。剛はもう一度横に飛んだ。マーチがエンストを起こした。二メートル程スリップして止まった。
 辺りは元の静寂を取り戻した。村田の呻き声が聞こえた。剛はマーチに近付く。もう一度呻き声がした。運転席のドアを開けた。右目を完全に潰した村田が雪の上に這って出た。村田は苦しそうだった。剛はマーチの床から血まみれの銃を拾った。構える。銃把が血で滑った。村田は、頼む、とだけ言った。
 剛はありったけの弾を村田の顔に浴びせた。顔だけを撃った。間もなく、それは顔ではなくなった。肉片が飛び散り、辺りの雪は血を吸って暗がりの中に黒く染まってみえた。剛は川に駆け、吐いた。
 それから村田を丸裸にした。何度か川に走った。胸に牡丹の刺青があり、裸にした甲斐がないことがわかった。マーチからシャベルを見つけ出し、村田に雪をかぶせてやった。遠くで風が唸っていた。
 次の朝、一人の高校生が下り坂でスピードを出し過ぎ、電柱に激突し死亡した、という記事が朝刊に小さく載った。
 剛はその朝刊を投げ出し、窓外に目をやった。この冬最後の吹雪が惜しむように暴れ狂っていた。

 卒業式。朝からクラスの中は落ち着かなかった。男女混ざり合って柔らかい雰囲気の中、笑いさざめいている。
 剛はそんな教室から出た。別にその空気が嫌だったわけではない。むしろ仲間と一緒に話をしていたかった。しかし、やるべきことがあった。
 渡り廊下を歩き、事務室や職員室の集まっている管理棟に向かった。保健室の前まできたとき、その人物が職員室から出てきた。黒い礼服を着込んでいる。彼は剛を見つけて愛想の良い笑みを浮かべた。
「よお。長尾君。卒業おめでとう」
「ありがとうございます、長門先生」
 剛も愛想良く答えていたが、突然真面目な顔になり、
「実は大事なことでお話がしたいのです。 ‥‥式の後、進路相談室でお願いできませんか」
 長門は眉間に深い皺を寄せた。
「何だ。札幌文化大じゃ不服だとでも言いたいのかね。 ‥‥ま、君なら一年浪人したら国立に入れると思うが‥‥」
「お話は式の後で‥‥」
 例年にない立派な式も終わった。毎年のことだった。
「剛、どうだ、これから。宇野の家に行かないか」
「ああ。ちょっと伯父さんに用があるから、後で行くよ。先に行っててくれよ」
「それじゃ、待ってるぞ」
「岩渕智子、連れてきていいぞ。スペースはあるから」
 宇野が言う。剛はそれを笑って受け止めて進路相談室へ急いだ。その部屋は三階の隅にあり、卒業式の今日ともなれば、誰も来るわけがなかった。
 部屋にはまだ長門の姿はなかった。十分ほど待ってみる。剛はそこを出て職員室へ向かった。
 来ないつもりなのか。
 職員室にもいない。
 どこだ。
 もう一度進路相談室へ行ってみたが、まだ来ていないようだ。剛は体育館へ向かった。その途中、柄の悪い三人の男とすれちがった。いずれも卒業生だ。
「へ、いい気味だ、あの野郎」
「そうだよな。見たか? あの鼻血‥‥胸がすっとしたぜ」
「長門のくそったれめ!」
 剛は無意識のうちに走り出していた。体育館へ入る。そこは式場を片付ける在校生で騒がしかった。
 どこだ。長門は。
 今頃長門はリンチを受けて、血まみれになって倒れているに違いない。どこか、人のいないところで‥‥
 ふと、弓道場が思い浮かんだ。木造旧校舎の体育館の横にあり、目立たない建物だ。剛は旧体育館に走った。バスケットボールのボードのした辺りの床に雪の足跡があった。扉を開ける。弓道場までを往復した何人かの足跡が点々と続いていた。
 剛はその足跡をたどった。安物の上履きに雪は冷たかった。弓道場の入り口のシャッターを開け、中に入る。暗がりだった。呻き声が聞こえた。剛は板張りの道場に足を踏み入れる。弓道場は舞台のようになっているが、今は緞帳となっているシャッターが何枚か天上から引いてあって的場は見えない。その舞台の真ん中に長門は横たわっていた。呻いている。そこにいるのが剛だと分かっているのかどうか、
「畜生。俺だってなあ、好きで教師やってんじゃないんだ。‥‥お前らは三年たったら卒業するからいいが、俺達は毎年毎年言うことを聞かない連中に骨を折るんだ。‥‥畜生」 剛はかたわらに転がっている煙草の箱を摘み上げ、一本抜き取ると口にくわえた。
「‥‥長尾。お前も俺を殴るのか。殴るなら早いとこ済ましてくれ。 ‥‥畜生」
 剛はくわえた煙草に、転がっていたライターで火を付けた。
「そうやってのうのうと煙草を吸いやがって‥‥教師にはいい顔しといて、陰では何をやっているか分からん。 ‥‥こんな、こんな神経を使う仕事は‥‥仕事は‥‥」
 剛は火の付いた煙草を手に持つと、吸口を長門の血だらけの唇に押し当てた。長門がくわえる。
「大人はずるいな。自分だって学生だった時分には、煙草も吸ったろうに。学生時代に自分は品行方正だったと大きな声で言えるかい? そう言える教師が一体何人いる?」
 長門は煙草をくわえたまま薄く笑った。
「長尾。やはりお前も若いな」
 剛は自分の煙草を取り出し、火を付けた。しばらく沈黙した。
「‥‥そうかも知れない」
 剛は学生服の上から、内ポケットにいれてあるナイフの存在を確かめた。
「話ってなんだ」
 長門が呟いた。煙草は床にこすりつけて消していた。剛は長門のそばに座り込む。
 壁際の弓立てに弦をはずした弓が十数本並んで立っていた。大きな鏡の前には巻藁が盆踊りの太鼓のように据えられてある。何やら皮の匂いが鼻につく。
「もう一本くれ」
 長門が呟いた。剛は煙草の箱を長門に手渡した。
「自分のだろう?」
「話ってなんだ」
 長門が煙草を口にくわえ、言った。剛はライターで火を付けてやる。
「‥‥もう、いいよ。話す事はない」
「変な奴だな」
「かも知れない」
 長門が乾いた笑い声を立てた。剛もそれにつられて笑った。
「つよし」
 背後の声に二人とも体をびくりと震わせた。振り向くと開け放しの入り口に智子が立っていた。
「智子。どうしてここへ‥‥」
 智子だけではなかった。智子の背中を押すようにして入ってきたのは吉村刑事だった。後ろに制服の警官の姿がちらりと見える。
「残念だよ。君が犯人なんだ」
 疲れたような口調だった。剛は座り込んだままの姿勢で、新しい煙草を吸い始めた。
「ウィスキーの小瓶が見付かったんだろ」
 剛が煙を吐きながら、独り言のように言った。
「そうだ」
「指紋が付いていた」
「そうだ」
「・・・・そうか、西岡の顔写真に俺が付けた指紋と一致したんだ」
 吉村はうなずいた。剛はそれを見てはいなかった。
「そうだ」
 吉村は改めて口に出して答えた。
「刑事さん」
 智子が口を開いた。
「剛と二人で話をしたいんです。どうかDD」
 しばらくの沈黙。吉村は土足のまま道場に上がり、横になっている長門に話しかけた。
「立てますか」
 長門はうなずき、
「未成年の喫煙を黙認した罪で連行ですか」と、軽口を叩いた。吉村は笑い、長門が立ち上がるのを手伝った。長門は相当痛み付けられているようだ。吉村は長門の両肘を抱えるようにして出口へ向かった。
「シャッターは降ろすわけにはいかない」
 吉村が智子に言った。表に待たせていた制服の警官に長門を預け、吉村は連れていけ、といったふうに顎をしゃくる。
「私はこの辺をぶらぶらしてるよ。煙草二本吸い終えたら、入って行くから」
 剛には吉村の姿は見えなかったが、入り口の横にいる吉村の影は見えていた。
「つよし」
 智子が剛に歩み寄ってきた。大きな赤い布製のバッグを抱えていた。剛は立ち上がる。智子は剛に手の届く位置まで来て立ち止まった。
「睡眠薬、効かなかったのよ」
 智子がぽつりと言った。
「あの時期、私は不眠気味だったの。受験勉強で。 ‥‥それで薬を常用してたのよ。あのくらいの薬じゃ効かなかったの。
 ‥‥ホテルの喫茶室で人と会っていたわね。私、尾けたの。あなたが喫茶室を出る前に部屋に戻って、寝た振りしながらあなたの帰りを待った。なかなか帰ってこなかった。‥‥あの人殺されたのね」
 智子の口調には抑揚がなかった。戸口のほうからライターの音がした。吉村には智子の話は聞こえていないらしい。
「私がシャワーを浴びているとき、あなたは部屋を出ていった。私、こっそりとあなたのバッグの中身を見ちゃったのよ。‥‥何が出てきたと思う? ‥‥これよ」
 智子はバッグに手を突っ込み、抜き出したときには拳銃を握っていた。銃身が長い。
「あなたの部屋のトイレの水槽に、ビニル袋に包まれてあったわ。弾は入っていないけど」 智子はそれを扱い慣れていない人間の持ち方をして、差し出した。
「智子、それじゃないよ。それはサイレンサーが付いてる。あのときの拳銃じゃない。あのときの拳銃は」
 剛は内ポケットにナイフが入っているのを思い出した。
「あのときの拳銃はここにあるんだよ」
 剛は上着のボタンを一つ外し、合わせ目から右手を差し入れた。ナイフの柄に指が触れた。智子は村田の拳銃を床に落し、再びバッグに手を突っ込む。床に落ちた拳銃は鈍く、重みを感じさせる音を立てた。
 吉村はその音に気づき、吸っていた煙草を雪に叩き付けた。ホルスターの拳銃に手をやり、道場に踏み込んだ。
 銃声が三人の動きを止めた。智子の両腕を呑み込んだバッグから硝煙が立ち上っている。スローモーションの映像のように剛が床にくずおれる。
「剛、そんなところにはないのよ。銃はあなたの部屋から見つけていたわ。本棚の本の後ろよ。ただバッグから取り出す順番を間違えただけ‥‥ 来ないで!」
 智子は吉村の動きに気づき、バッグから銃を握った手を抜くと、銃口を自分のこめかみにあてた。倒れた剛のかたわらにひざまづく。
「来ないで。引き金を引くわ。‥‥本気よ」
 吉村は凍りついた。智子の瞳の輝きが気になった。
 普通じゃない。
 剛が呻いた。剛は腹を撃たれていた。
「ともこ‥‥痛いよ。死にそうだよ。痛い。こんなに痛いものだったんだ」
 智子は吉村を見つめたまま言った。
「剛、言うのよ。この拳銃があのホテルの事件で手に入れたものね? じゃ、あれは?」
 剛は血を吐いた。顔が歪んでいる。
「む、村田とかいうやくざのだ。‥‥僕が殺した」
「胸に牡丹の刺青がある、あの死体だな?」
 吉村の言葉だった。きつい口調だった。
「そ、そうだ。‥‥それに、冬木、孝夫の事故も、あ、あれは事故じゃあ、ないんだ」
「何ですって」
 剛の額に脂汗が光った。どす黒い色をした血を吐く。
「ぼ、僕が殺した。‥‥長門先生が知ってる。け、決闘をした。僕が勝った」
「長門教諭を殺すつもりだったな?」
 剛はしばらくの間咳込んだ。
「そうだ」
「どうして殺さなかった」
 剛は答えなかった。
「どうしてだ」
「ひ、必要がなかったからだ」
「‥‥自分の母親はその必要があったのか」
 剛が苦しそうに呻くと、赤く染まった歯がその姿を現わす。
「‥‥あった」
「どうして殺した?」
「じ、人生を」
 剛の顔は土色になっていた。歯を食いしばって呻く。
「人生をばら色にするために」
「そして今、私を殺そうとした」
 智子の膝元にナイフが転がっていた。智子は剛を冷たい目で見下ろした。
「剛、私がどんな気持ちだったか、あなたに分かって? 人殺しに抱かれたんだと気付いたときの私の気持ちがあなたに分かって?」
 弓道場の外が騒がしくなっていた。
「吉村刑事! さっきの銃声は?」
 不意に制服の警官が入ってきた。吉村は片手を横に伸ばし、部下の歩みを止めた。
「来ないで! 誰も来ないで!」
 智子の瞳は輝きを失っているようだった。
「と、智子。痛いよ。知らなかったんだ。こんなに、こんなに痛いものだったなんて。‥‥死にたくないよ。死にたくない。ぼ、僕、死ぬのは嫌だ。智子‥‥」
 智子は持っていた銃の銃口を下げ、剛の額に当てた。
「剛、死ぬのよ」
 引き金が引かれた。銃声。剛の体が痙攣した。首から上が原型をとどめていなかった。 吉村がホルスターから銃を抜いた。
「動くんじゃない!」
 智子はその言葉に逆らった。銃口を再び自分のこめかみに当てる。
「やめろ!」
 その言葉にも逆らった。智子の持った銃が火を吹いた。
「畜生!」
 吉村は唇を噛んだ。
 智子の遺体は剛のそれに折り重なるように倒れた。道場の床は真赤な血が、その面積を広げていた。道場の空間には、今にも火花を散らしそうな火薬の匂いが充満していた。それに血生臭さが混じっている。吉村は顔をしかめた。
 しかしそれらもいずれ消えてしまう。
「連絡だ」
 吉村の声に、部下が弾かれたように弓道場を出ていった。
「ばらの色にもいろいろあるさ」
 吉村の言葉は、そこに転がる二つの遺体の鼓膜を虚しく震わせただけだった。

終わり