青春の汗

 涙が出ないのが不思議だった。スカイラインを運転している父も、その助手席に座っている母も黙っていた。ただ、母はうつむいてハンカチを顔に押し当て、肩を震わせていた。今、大学病院からの帰りだ。車の窓ガラスは曇り、雨の雫が上から下へ流れていった。
 所詮、人間は生まれたときに死刑を宣告されたようなものだ。と、後部座席に座っている少年は考えた。信号機が、赤から青へ変わった。少年は自分の死刑執行がとても早く行われる、ということを偶然病院の廊下で知ってしまった。母は今度は声をあげて泣いている。父が母を勇気付けている言葉を聞きながら彼は、目を閉じた。
 明日から新学期。今日は夏休み最後の日だ。不幸にもこの少年、相沢健次は後一月の命だった。彼は治す手段のない病気におかされていた。

 翌、九月一日、健次は赤い目で登校した。昨晩は一睡もできなかったのだ。ざわざわとして落ち着かない教室と対照した静かな廊下を、ズックをスリッパ履きにして自分の教室に入った。みんなの雰囲気がいつもと同じであることにほっとしながら、席につき、ズックをなおす。
 自分が病気であることを誰も知らないのだ。
 そして、始業式が終わり、健次にとっては無意味な授業が始まった。

「相沢」
 授業が終わり、家へ帰ろうと教室を出た健次を、担任の小野先生が呼び止めた。
「話がある。ちょっと会議室へ来てくれ」
 会議室は三階にあり、放課後には滅多に人は来ない。健次はどんな話かだいたい予想はできたが、鞄を教室におき、小野先生の後についていった。
 小野先生の背が会議室に入っていった。健次は廊下に誰もいないことを確かめてから、会議室のドアを閉じ、小野先生のほうへ向き直った。
「相沢。昨夜は眠れなかったようすだな」
 健次の、朝よりは充血がおさまった眼を見ながら小野先生は言った。
「先生」
「相沢。今お前の体がどんな状態であるか、先生は知っているぞ。もちろん、今は先生しか知らないが」
 小野先生は健次にくるりと背を向けながら言った。
「‥‥」
「どうする? これから毎日学校へ来るのか」
「そのつもりです」
 健次はきっぱりと言った。
「どうして。親のそばにいてやれよ。一番悲しむのはやはり親なんだぞ」
「僕には信じあえる友達も恋人もいない。それが悔やまれてなりません。‥‥それに一つだけやりたいことがあります」
 健次は目をふせながら言った。
「何だ。それは」
「それは僕のずっと前からの夢でした。‥‥一か月後の文化祭のステージにギターを抱えて上がることです」
「一か月後?」
 小野先生は、ドアのところに立ったままでいる健次のほうに向き直って言った。
「一か月後っていったらお前‥‥」
 小野先生は眉間にしわをよせ、健次の瞳を見つめて言った。
「‥‥」
 健次は小野先生の瞳を見つめ返した。
「‥‥わかった。コンサートを開きたいんだな。‥‥よし、先生も協力しよう」
「ありがとうございます」
「悔いの残らないようにしろよ、絶対」
「はい、わかってます。それが今の自分の生き甲斐みたいなものですから」
 健次の瞳は澄み、輝いていた。悲しみは影もなかった。小野先生は嬉しかった。これ以上、話す必要はないと思った。
「何かあったら、どんなことでも先生のところへ来い。いつでも相談相手になってやるから」
といいながら、小野先生は健次の肩をぽんと叩き、会議室から出ていった。
 健次もまた会議室から出、小野先生が去っていった反対側の方へ歩いていった。教室においてきた鞄を取りに行くのだ。もう、西の空は赤く染まっている。
 二階にある二年A組の教室には、二人の女子以外誰もいなかった。二人のうちに、健次が一年のときから好意を寄せている、岩田久美子がいた。
 久美子がいる、そう思っただけで健次の胸はときめいた。急に体がかたくなって、今にもつまづいて転びそうな歩き方だ。健次の席は、久美子の席から右に二つ数えたところにあった。久美子は活溌な明るい女の子で、今も友達の古川典子と、身振り手振り楽しそうにお喋りしている。
 健次は鞄の重量感を感じながら久美子の横顔をちらっと見た。男子の間で、久美子の笑顔は百万ドルの笑顔と呼ばれている。健次はその笑顔を見られただけで嬉しかった。健次は胸のときめきを快く感じながら、早足で教室を去った。健次はこれが初恋ではなかった。

 次の日、健次はバレー部に退部届けを出した。自分の短い一生をバレーに捧げるつもりはなかった。中一の時、ある有名なフォークシンガーのステージを見なかったなら別なのだが。
 約四年間、趣味をギターにしてきた健次の腕前は確かなものだった。健次の作ったオリジナル曲は十曲近くあった。中学時代の初恋、失恋をテーマにした曲、友情をテーマにした曲、そして卒業する自分の気持ちを素直に表わした曲など、すべて単純なコードで演奏できた。
 そしてまた一曲増えることになった。久美子へのときめく心を歌にした。軽快な曲だった。もう悲しい曲は作りたくはなかった。
 バレー部をやめて家へ早く帰った健次は、ギターを抱えて、今までに自分が作った曲を歌いまくった。
 中学で失恋したとき作った曲を弾いていると、中学の甘いときを思い出し、胸が熱くなった。中学時代、唯一の親友の顔、クラスメイトの顔、優しかった担任の女先生の顔、バレー部の後輩達の顔、そして、健次に苦い思い出を作らせた女の子の笑顔。色々なことが目の前に繰り出してきた。
 健次の頬が濡れたのは中学時代を思い出したからだけではなかった。自分の短い一生に対しての悲しみの涙も健次の頬を濡らしていた。
 そして、自分のオリジナル曲を全部歌い終えた健次は、自分の一生が短いことへの悲しみ、今までの自分の生き方のむなしさをテーマにした曲を、これまでにない、美しいメロディで作り上げた
 健次は心に誓った。これからは今という時を大切に生きて行こう、と。
 今まで自分は未来を頼りに生きてきた。だが、その未来も、日に日に少なくなってゆく。まるで、列車に乗って、鉄橋のない谷へ向かっているようなものだ。自分の、列車という人生が向かっている谷はどの辺にあるのか、健次は知っている。その谷へ着くまでに自分のやりたいことをすべてしようと思った。その一つとして、健次は久美子へ自分の胸のうちをすべて伝えようと決めた。

 九月三日、帰り道、健次は校門で久美子を待っていた。手紙や電話より、直接会って話したほうがいいと、健次は考えたのだ。
 健次は、腕時計をのぞいた回数が分からなくなった頃、久美子の姿を見た。しかし、久美子の横には古川典子がいた。
 健次は久美子が一人になるときがあるかもしれないと思い、二人の後をついていった。夕日で長くのびた二人の影は間もなく、バスの停留所に止まった。
(バスに乗るのか‥‥ 明日にしよう) 
 健次はバス停の前を通り過ぎようとした。
「じゃね」
「うん。バイ」
 はっとして健次は振り向いた。バスに乗るのは典子だけなのだ。久美子は確実に健次の方に近づいてきていた。健次は再び前に向き直り、久美子が曲がるはずの曲り角を入っていった。久美子を待った。健次が久美子の驚きの表情を真正面から見ることができるまでの時間は短かった。
「相沢君。‥‥?」
「岩田君」
 健次の体は、金縛りにでもあったようになっていた。
「何? なんの用?」
 久美子は健次の瞳をのぞきこんだ。
「や、休み明けの学力テストが明後日あるだろ」
「勉強の話?」
「いや、ち、違うよ!」
「じゃ、何?」
 健次はこんなに近くで久美子を見るのは初めてだった。久美子の唇の動きから息遣い、まつ毛の一本一本まではっきりと見える。久美子のいたずらっぽい視線がまぶしい。
「え? え‥‥と、テ、テストが終わったら、さ、映画一緒に‥‥ どうだい?」
 健次は久美子の足元を見ながら、ぼそぼそと言った。
「‥‥」
 久美子は健次のうつむいた顔をじっと見つめた。が、健次が顔を上げると、今度は自分が目をふせた。
「か、‥‥考えておくわ。じゃ、テストが終わったらまた!」
と言い捨て、顔を上げずに駆けていった。
 健次はそんな久美子の後ろ姿を見送りながら、妙な充実感にひたっていた。

「?」
 健次がうっすらと目を開けると見慣れない天上があった。首を右に回すと、椅子の上で寝息を立てている母の姿があった。
 健次は久美子にデートを申し込んだ晩に、血を吐いたのだった。
「健次‥‥」
「か、母さん」
 母の目は赤く充血していた。
「今、何時?」
「あと五分で三時だよ。‥‥十九日の」
 母はそう言うと、健次が目を開けたことを院長先生に報告しに行った。
(十九日?‥‥九月十九日か‥‥)
 健次は、あと一月という短い一生のうちの半分を病院の中で、意識のないまま過ごしてしまっていたのだ。
(文化祭まであと‥‥ 一週間くらいか)
 健次は早く病院から出たかった。そしてDDDD久美子に会いたかった。

 九月二十日、朝、健次は父の運転するスカイラインの後部座席に座っていた。
(久美子‥‥)
 健次は久美子に会ったら改めてデートを申し込むつもりだった。
「あっそうそう、健次に手紙を預かってたんだよ」
 母が差し出した手紙には、切手は貼ってなく宛名もただ、「相沢君へ」と書かれていただけだった。
「可愛い女の子だったよ」
 健次が開けてみると、
 DDD相沢君、ごめんなさい、さようならDDDD岩田
 久美子からだった。「さようなら」とはどういうことだろう。
「それからね、その手紙の人とは別な女の子がね、五、六回お見舞いに来てくれたんだよ。‥‥確か、古川‥‥」
「え?」
 古川典子が見舞いに来たのか。どういうわけだろう。
「あと、お見舞いに来てくれたのは、男の子ばかりだったよ。‥‥佐藤君とか、小田桐君とか‥‥」
 あいつらも来たのか。でも典子が来たのは意外だ。
 健次は早く学校へ行きたかった。久美子の「さようなら」の意味を知りたかったし、佐藤や小田桐にも会いたかった。
 健次を乗せた白いスカイラインは見慣れた景色の中に走っていった。

「え? ウソだろ? かつぐのはやめろよ」
 健次は学校へ行きたくてたまらなかったが、病院の先生に言われ、家で休養していた。そこへ、小田桐晃がやってきた。
「ほんとなんだ。お前が入院している間に」
「いつなんだよ。いつのことなんだよ」
「九月‥‥の十日‥‥かな」
 ちくしょう。健次はわけもなく叫びたかった。もう久美子に会えないなんて‥‥
 あの手紙の「さようなら」の意味が転校だったとは。
「ケン、それじゃあな。文化祭の準備で、買物してからまた学校へ行かなきゃならないんだ。明日は学校へ来るんだろ?」
 健次はそれには答えなかった。小田桐は健次の家を出た。
 今は一人にしておいたほうがいい。
 健次は久美子に手紙も電話もする気になれなかった。自分があと十日あまりの命だってことを、彼女が知らなかっただけ慰みものだ。DDDDふと、健次の頭に典子の顔が映った。
(典子か。ひょっとしたら俺のこと‥‥)
 健次はその晩、生まれて初めて酒というものを飲んだ。
 健次には予想できるわけがなかった。この後、この酒が原因で健次は‥‥

 九月二十二日、久し振りの学校は文化祭のことで賑わっていた。
「相沢」
 小野先生だ。
「お前のコンサートの時間、とっておいたぞ。‥‥やるんだろ? コンサート」
 文化祭は三日後の二十五日だった。小野先生のおかげで、健次はコンサートを開くことができる。夢にまでみた自分のステージだ。
 放課後、健次は遅くまでクラスの連中と話をした。典子の姿もあった。健次は何度も典子と目があった。
「相沢君、文化祭でコンサートをやるんだってね」
 クラスのちょっとした人気者、加藤頼子だ。
「ほんとかよ。誰の曲やるんだ?」
「それは秘密です」
 そうこうしているうちに、もう暗くなってしまった。
「じゃな」
「おう。気をつけて帰れよ」
「バアイ」
 いいやつらなんだな。
 健次はもっとみんなと話をしていたかった。

 健次は自分の名を呼ぶ声を聞いた。
 振り向いた健次の後ろには、走ってくる典子の姿があった。
「相沢君」
 典子は肩で息をしている。
「典子‥‥」
 健次は思わず呼び捨てにしてしまった。
 抱きしめたい衝動にかられた。自分のためにこんなに汗をかいて走って来た典子がいじらしく思えた。
「相沢君、私、‥‥私、聞いてしまったの」
「え?‥‥ 何を?」
「この前、‥‥お見舞いに行ったとき」
「‥‥」
 次の瞬間、典子は健次の胸に顔をうずめていた。泣きじゃくりながら。
「そ、そんな‥‥ 相沢君が‥‥ そんなことって」
 典子を見ている健次の頬にも熱いものが伝っていった。典子の背中にまわした健次の腕に力がはいった。

 九月二十五日。いよいよだ。刻々と健次のコンサート開演の時間が近づく。健次は典子と二人、舞台裏にいた。
 チューニングする健次の指がぎこちないのに見かねて典子が口を開いた。
「リハーサル通りにやれば大成功よ。‥‥リラックス、リラックス」
 健次の肩に手を乗せた。
「相沢、この次だぞ」
 不意に入ってきた小野先生は寄り添っている二人を見て苦笑した。
 だんだん、健次の胸の高鳴りがはやくなる。
「悔いの残らないように頑張ってこい!」
「は、はい」
 健次の喉も緊張しているせいか、うまく声にならない。
「おい、だいじょうぶかよ。やる前からあがってんのか? リハーサル通りでいいんだからな」
 頑張らねば! 自分の人生はあと何日もないのだ。この二本の足であのステージをしっかりとふみしめてやる!
 そう考えるとだんだん落ち着いてきた。
「ケン、出番だぞ」
 晃だ。よくこの晃と健次は佐藤幸雄と三人でバンドを組もうと話し合ったもんだ。
「ケン、聞かせてくれよ、お前の曲」
 健次のコンサートの後には、晃の率いるバンドのステージがひかえている。
「頑張って! コンサートが成功して文化祭が終わったら、映画へ行く約束よ!」
 典子は小野先生や皆がいるのにおかまいなしだ。ステージに上がった健次はそれを聞いて苦笑いした。

 暗いステージにスポットライト一本で照らされる健次の姿があった。幕が開くと、細波の音にも聞きとれる拍手が起こった。健次にはスポットライトがまぶしくて聴いてくれる人達の顔が見えない。全然あがってはいなかった。
 一曲目は久美子との別離を歌った悲哀な感じの曲だった。場内はしんと静まり返っている。聴いているものには、健次の高い声が心のなかにまで響くようだった。健次は閉じた目蓋が熱くなるのを感じた。久美子の百万ドルの笑顔が思い出される。曲の最後になると、健次はもう我を忘れて歌った。絶叫した。それがまた、聴く人の心を震わせた。感動させた。そしてDDDD大きな拍手を沸かせた。曲が終わると、健次はぼそぼそと照れくさそうにこの曲ができたわけをマイクに話した。場内は物音一つしなかった。
 二曲目。軽快な曲だ。場内に誰からともなく手拍子が始まった。健次も又、それに合わせてギターを掻き鳴らした。
 ありがとう! 二曲目が終わって健次は心からそう叫びたかった。
「それでは次の曲いきたいと思います」
 健次の体は早くも汗でいっぱいだ。
「次の曲は、‥‥僕が中学三年のときでした。ある可愛い女の子に恋をしてね、目と目が合うだけで胸がどきどきして‥‥ 修学旅行の時だったかな‥‥ たった一言、ほんとにたった一言だけ、話をしたんだよね。‥‥こっちが、旅館の窓から友達と外を見ているとね、その子が一人で話しかけてきたんだよ。‥‥友達のほうに。
『何、見てるの?』『湖』『窓開けて寒くないの?』『寒いけど女の子と二人きりだったらなんともないね』『それじゃあ、私と二人きりだったら?』『寒さなんて感じないよ』と、キザっぽく奴が言ったんだよ。すると彼女、『相沢君、かわってよ』なんて言うからつい、『ああ、いいよ』って部屋に引っ込んでしまった」
 笑い。温かな笑いだった。
「あんまり、笑うなよ。悲しい話なんだぞ、これ。その後ね、その後あいつと彼女すっかりできてしまってね。結局僕は失恋しちゃったんだよね‥‥ その時のことを歌にしました。聞いてください」
 拍手‥‥

「え‥‥と、最後まで、ほんとに最後まで付き合ってくれてありがとう。‥‥最後の曲です。この曲はついこの間作りました。‥‥実は‥‥ 実は皆さん、聞いてください。ぼ、僕はある病気にかかっているんです。‥‥治すことが出来ない病気です。‥‥僕はあと、あと‥‥五日、五日ぐらいしか‥‥生きられないのです!」
 最後には、声をはりあげて健次は叫んだ。会場はどよめいた。中には「ケンジー」と叫んでくれる女の子もある。健次の涙を見て叫んだのであろう。DDDD典子も又、健次と同じくらいの涙の量で顔を濡らしていた。もう健次をまともに見ることができない。そして、そんな典子を見る小野先生の目にも‥‥
「い、いきます! やります、最後の曲!‥‥典子のためにも!」
 健次は静かに弾き始めた。会場にはまだ健次の名前を叫ぶ声がある。最初は涙で声がかすれていたが、もう健次の頬を濡らすものは汗だけだった。

 クライマックス。健次は喉が潰れるだけ叫んだ。文字通り絶叫だった。ギターの弦が弾きちぎれそうだ。無我夢中、そのものだった。
「ありがとう! 最後まで、ほんとにありがとう! もう、もう悔いはありません! ほんとうにありがとう!」
 まだ健次はギターを掻き鳴らしていたが、打ち合わせ通り、幕は閉じられた。健次の汗はステージの健次が立っているあたりを濡らしていた。健次は最後にギターの弦を小刻みに激しく上下させた。嵐のような拍手が会場を揺るがせた。
「け、健次君!」
 ギターを弾き終えた健次が倒れたのを見た典子は健次のもとに駆け込んだ。
「健次! 健次!」
 健次の体には息がなかった。あのときの酒が原因だった‥‥ 
 典子は腹の底から泣いた。激しく吹き出る涙は枯れそうにもなかった。健次のまだ温もりが残っている頬に自分の頬を押し付けた。今、健次の青春の汗にかわって典子の愛の涙が、健次の体を包み込もうとしていた。
 アンコールの手拍子は悲しく空回りしている。

   青春の汗                   一九八一年 八月 作

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